昭和44年10月28日 朝の御理解
御理解第45節「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をする、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」と。
様々なことがこの一節の中に教えてあるのですけれども、今日は、ん~、「頭を下げることを忘れる」と、「神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ」と、「頭を下げることを忘れる」と、その辺のところを頂きたいと思いますね。
確かに人間は、え~高ぶっておる人ほど、まあ嫌な感じなものはありませんですね、え~、それにおごっておる人、おごり高ぶっておる人、それが、え~、まあある意味で、え~、え~、人よりも色々な意味で頭が優れておるとか、商売が上手であるとか、え~仕事がうまいと、いうのならまあ要らず知らずですけれども、そうでもないのに、高ぶっておる人があります、何かちょっと調子が良いとすぐに高ぶる、私は思うんですけれどね、本当にその、お~、まあ商売をするなら商売によって本当に、儲け出すというですか、ね、商売には、やはり儲けるということに、一番、敏感ですね、ですから商売が上手、やり方が良い、それでまあ儲けだしたと、そうしてですね、私は高ぶるとか、ね、え~、というのならね私はまだまだだとこう思うんです、いや本当は一遍高ぶりが出るくらいな、あ~繁盛のおかげでも頂いてみたいとすら思う、ね、まあ人から高ぶっておる、傲慢だと言われてもです、やはりそれだけの事が出けて、高ぶっておるというなら、私は一遍そういう高ぶる心といったようなものでもね、高ぶれるくらいなおかげを頂きたい、ね、ところがです、ね、実際は何にも出来ん、でけてもいないのに、なら、これはしょ、商売だけのことじゃありませんけれども、まあ商売に例えますならです、言うなら借金はいっぱい持っておる、え~、手が届かん遍に、まあおいきといきせんならんと、と例えばいうような状態でです、何かちょっと調子が良い事があるとすぐ高ぶる、いわゆる頭を下げることを忘れるんです、ね、信心をしておるのも同じことが言えるのじゃないでしょうか、本当に身に徳を受けて、まあ身に徳を受けてと言うか、え~信心によっておかげを頂いて、まあ人がたまがると言うか、人が見上げるような、おかげを頂いて、そして慢心するならまだまだ、そして頭を下げることを忘れるというならまだまだ、だからまあある意味でですね、慢心が出るくらないなおかげを頂いてみたい、ところが良うもおかげも頂かずして慢心する人がある、頭を下げることを忘れる人がある、いわゆる頭を下げることを忘れてしまう、これではですねおかげの頂きようがありませんですね。
少し出来るとすぐ慢心する、少し自分の方が、が強いということになると、すぐお~、弱い者をいじめ的な、状態に、まあ言うならば、トラの衣を借りたきつねのようなもの、すぐ威張りたがる人がおる、ね、それではねやはりおかげが受けられん、やはり水は低い所へと、言われるように、私共がやはりどんな場合でも地を低うしておれれる、頭を低うしておれれる、状態、心からね、心から、あの、自分を、が、地を低うしておれておるという時の、え~、気分と言うか、それが自分ながら有り難いことだとこう分からしてもらう、何にも中身は無いのに威張っておるほど寂しいことはない、つまらんことはないという風に思います。
「人から先生、と言われるようになると」とこう言うておられますが、先生と、私共のようには、先生の上にまあいっちょ親を付けてから親先生とこう呼んで下さる、始めの間は、何かこう、先生と言われたり親先生と言われるようになると、え~、何かビクっとするようなものを感じた、それだけの資格もないのに人が先生と言うて下さる、親先生と言うて下さる、それが段々、いわゆるなれる頃になってくると、頭を下げることを忘れてしまう、確かにその通りである、ね。
そこで、え~、いつでも地を低うしておれれるというか、頭を低うしておれれると、ようなおかげを頂くためにです、いつも自分自身という者をぎりぎり見極めておくことだと、自分という者の見極めが出来ないところにです、先生と言われると本当の先生になってしまう、親先生と言われたらもう、自分が大将のごと思うてしまう、どうぞよろしゅうお願いしますなんていうようなものがなくなって思い上がります、ね、いわゆる我が強うなるわけですね。
本当に自分という者が、段々分かりだしたら、そののぞばってはおれん、のような言い方も人間誰しも、信心とは結局自分自身を分かることだとすら言われておるのですから、いよいよ自分を見極めることが大事。
わがままが出、横着が出る、本当に自分という者が分かったら、そんなわがままやら横着やら出来んのだけれど、わがままになる、横着になる、それでは、やはり、え~、身に徳もつかん、神徳も落としてしまうことになりましょう。
昨日、久留米の、三橋先生の所の御大祭でございましたが、お祭を頂くちょっと前でしたか、北野の中村さんが、私の控えにやってみえてから、色々のお話しをいたしました末に、「先生、北野の町の人達が、私のことをこういう風に言われます」と、「中村さんあんたが椛目の先生ば盛り立てたつげなの」っち言いなさると、けどもこれはまあ過言ではないと思うですね、私がまだ先生でもない、え~まあ言うなら、一番難儀な時分、中村さんもまあ言わば難儀な時分、私も難儀な時分、ね、そういう時分に、やはり私のことを本気で一生懸命思うて下さり、その当時やはり広間に、まあ五・六人ぐらいは、もうそれこそ、当時の椛目ですよね、「椛目椛目」と言うて、え~、椛目に打ち込んでおられた方達がございます、もうそれこそ、今のように、電車やらバスやらでない、皆歩いてからでした、本当にその当時やはり北野で椛目はもっておると言われるくらいに、そのあった、その言わば先達であり、えぇん~その中心であった中村さんのことですから、人がそう言うのも無理はない、ね。
その時分、吉木の地区と、北野の地区と、まあ言うなら勢力が、み、身分する、ほどしであった、大変お参りが多かったですね、吉木それから北野、ね、その例えば中心に中村さんあたりになっておられたのですから、しかもそれから次々と色んな事情で信心を止めて行ったり、また途中で下りたりした人があります、ね、けれども中村さんだけは折れることもなしに、やはり信心を頂き、合楽の信心を頂き続けて、え~、おられます、そしてまあおりに総代ともお取りたてを頂いて、おかげを頂いて、一家中が信心をして、同時に、うんならおかげもまた受けられました、色んな意味でも受けられました、ですからやはり北野の人達が、「椛目の先生が儲かったのは、中村さんあんたげなのという風に申しますと、それを聞いてから思います、もうほんなこてそげなこつ言われるようになっちゃもう私は罰かぶると思うて、もう言うなら居所がないごと思いをいたします」っち言う、だから言うならば、そう言われる時にです、まあ本当、あぁ~、まあ自分のどん本当に椛目に打ち込んだと、いったような思いもやっぱするのかもしれません、そこにちょっと思う時に身の縮むような、「私しゃほんなそげなだんじゃなか」というようなことになってくるのでしょうけれどね、「先生だからそこんことを神様によ~とお詫びして下さい」と言われるんです、ね、総代としての御用が出来る、信者としては一番古か、何と言やさあ一番合楽の、おまあ長老として皆が大事にされる、すとされればされるほどです、中村さんが最近感じておられることはです、本当に身が縮むような思いをすると、勿体無い、相すまん、それがどうでしょうかね、「さぁて私達が一番、うんなら椛目の時代からこっぴじゃから、それからずーっと続いとるとよ、まあ言うなら私だけぐらいなもん、おかげで総代させて頂いてこうだ」と、と言うて総代風を吹かせるといったようなことであったら、私は今日の御理解のところから言うとですたいね、頭を下げることが、わっ、を忘れておる姿だとこう思うけれど、そこをこう気付いて行かれておるということが有り難いと思う、「もうそげなだんじゃありません」とこう言うわけなんです。
私は、いつも自分の修行時代の事を、お話しをする、本当に食べるに食がなく、着るのに衣がない、住まうにまあ、家なしとまでは言えんにいたしましても、それこそほりたて小屋のような家に住まわせて頂いた時代、もうその時代の事をお話しをする。
先日、う~、豊美のお別れパーテーの御祈念があった後に、私は、ん~、ね、履き物、下駄を拾うて歩いた時代の事をちょっとお話しをした、本当に、い~、不思議なくらいに、下駄が落ちてるんですよね、神様に、「下駄を拾え」とこうおっしゃって下さると、もう下駄の落ちとることに驚くです、私が荒戸ですね、西公園の、あそこの荒戸の教会から、長浜町ですね、今岩田屋から、今あの文化ホールがあるところがそうですね、あそこまでを裏道下へずーっと歩いてまいります、行き戻り歩きます、必ず、一足ちょ落ちとりゃしませんね、それでも、片一方づつ落ちとるです、ね、それを拾って、多い時には、あ~、縄でこうやって下げ、括って下げなんぐらいに拾う、はぁあの当時の私を見た人は、本当馬鹿じゃなかじゃろか気違いじゃなかじゃろかと思うただろうと思います、ところが不思議な事にですね、毎日そうやって拾うて帰りますとね、もう不思議なくらいに、これとこれと一つづつ一足になるとがあるとです、これはもう子供ん、勝彦んとに丁度ええ、これは豊美んとに丁度ええ、これは家内のと丁度ええ、これは私がつに丁度良いっちいうような風です、それを今度は家内が奇麗に洗って干し上げては、自分で、ええ、鼻緒を作ります、そういう例えば拾うた下駄に家内がそれを、をたてて、ね、学校に通わせた時代の事をお話しいたしました、したらある人がです「先生もうあげな話はなさっちゃいけません」っち、「下駄、下駄拾うて歩いた、歩くなんてん、そげな話はしちゃ、もうなさっちゃいけません」とこう言うて、まあ注意をして下さる方があった、けれどもおそらく合楽のある限り、この話は撮っとかなければならんと私は思う、ね。
私はその下駄をはるっ、歩いて拾うということを、をがですね、どういうことかと、その、そのために今私が申しますように、それがどうと言うことじゃないですけれども、とにかく落ちておる事も不思議なくらいでしたが、下駄に目を付けとくともう下駄が落ちとるのを驚くくらいですたけれどもです、それを拾うて帰ってね、それが一足づつになっていくということが私は不思議と思わじゃったです、はぁね、だから神様は下駄を拾わせることが目的ではなくて、言うならこのようにも間違いない事ぞと一番足元のところから教えて下さったという気がいたします、ね、いわゆる足元のところを、自分の足元のところをこう見せてもらう、それを拾うたる、片一方はどこで拾い、片一方はどこで拾うたと、それが見事に一つになっておる、片方、ね下駄ははいたことはないから、同じ、それが尊いのだと同時にです、これが合楽のある限りです、ね、私が亡くなりましても、合楽の初代は先代はこうこうであったと、そげな修行しなさったげなというようなことではなくて、ね、そこのところを私は思わせて頂く信心。
ある時に、(そくひ?)で医者が見放したというある教会の、長年お参りをしておるご信者さんが参ってみ、私のその小屋のような家を訪ねてみえたん、三七21日、21日間、気をきって願わしてもらった、21日目には、ね、もう、これはもういよいよおかげを頂いたと、というわけであります、その方は、昔下駄屋さんをしておった、そして畳屋さんに切り替えた人なんだ、ですからその畳屋になる前に、下駄、履き物屋をしておられましたから、そん時の売れ残りが、売れ残りの、お、お~、下駄が沢山あったらしいです、大きな古い包みいっちょ下げてみえたからなんじゃろかと思うたら、中から様々な下駄が出てきた、まあお礼の印というわけじゃないですけども、これは、あぁ、中には良いのがあった、けれども普通はもう本当にもう色の褪めたごとある、まあ妙な、あ~戦後の履き物ですから、妙なそれこそ履き物ばっかりでしたけれどです、もう家族中どころか、これはもう大事にして履きゃ、もう本当にしばらく下駄には不自由はせんというくらいに頂いた、ね、私はそれ以来履き物を拾うことを、をいたしませんでしたし、それ以来私は、これはもう私だけじゃない、私一家が、履き物に不自由することはございません、ね。
ですから、そういうおかげを頂いて、不自由しないということがです、その元を辿らして頂くと、只今申しますように、福岡の町を言わば下駄を拾うて歩いた時代というものを、私共は思わしてもらうとにです、ね、高ぶろうと思うても高ぶられるはずがない、ね、私共の一家の者が、ね、まあ、細々と食生活の上においてもおかげを頂いて、当時から私共は二食でしたし、一回は麦、麦のお粥、茶粥でした、だから今でも、この茶粥だけは、ね、お客さんのない時には、ね、お客さんのある時には仕方がないけれども、お客さんがない時には茶粥を頂くことにせねばならん、これだけは何時何時までも続けなければならない、ね、その麦のお粥さん一杯が頂きかねた時代があるのだ、ね、そういうようなことを私が申しますのもです、先生と言われるようになったからと言うて、ね、頭を上げる、言わば頭を下げることを忘れるようなことが無いようにという、まあ私の心使いなんです、ね、でそういう例えば、あっ工夫をさして頂いておりましてもです、只今申しますように、先生と言われ親先生と言われると、もうほんなこて親先生になったごたる気持ちで、おる自分に気が付かせて頂いてハッとするようなことがあります、ね。
なるほど中村さんあたりが、椛目のそうそう時代に、椛目をあの時代に、ね、盛り立てた盛り上げたと言うても過言じゃない、嘘じゃない、ね、けれどもそれを言われると身が縮む思いがするとこう言われるようなものがある間は、まだまだおかげを受けるんですけれど、「そうたい私どんが」っち言うごたる風になってくると、ね、「私どんがおるけん合楽が立って行きよる」といったようなものになってくるとです、ね、私はおかげを、いわゆる取り落とす、慢心がでるとおかげを取り落とすとこう、まあ実を言うたら取り落とすほどしのおかげもお互い頂いておりません、けれどですね、まあ本当にそういう、言うならばある意味においては、慢心が出るくらいなおかげも頂いてみたい、けれどもそこに私共は、ね、人間の弱点とでも申しましょうか、ちっと調子が良くなったり、ね、少し、い~、金はあるなら金はあるでも良くなりますとです、人に頭を下げることを忘れるようになる、ね、神様の前にですら、頭を下げることを忘れるようになる、そして横着をする、わがままをする、いわゆる実意丁寧というものを無くしてしまう、ね、そういう姿がどのくらい、見苦しいものか、ね、いわゆる嫌な感じという、こんな嫌な感じなものはない、そのためにはいよいよ、自分の言わば困迫時代とでも申しましょうか、を、何かの形でです、残してもおきたい、それを忘れんようにもしたい、同時にその根本になるところの、自分自身という者をいよいよ見極める、自分という者をいよいよ掘り下げる、自分という者を見極めさして頂くところから、ね、頭を上げようにも上げられないほどしの私、いわゆるそこに謙虚な姿がある、ね、身に徳がつくほど、頭を下げるという三宝様、いわゆる穀物のことでしょうね、自分自身の心の中にです、本当に自ずとじぶっ、地を低うされるものがある時、自分は本当に少しづつ実っておるんだということを、分からしてもらい、ね、自分自身が、ね、わがまま横着、または、え~、頭が高いとかですね、人で頭を下げることを忘れておるような自分という者を、はそこに発見されたらです、実っておるようであって、それは形だけで、言うなら粃ばっかりだということ、を悟らしてもろうて、ね、改めて一つ本気で信心を、ね、その内容を頂いて行かなければいけないと思います、ね。
今日は、45節を、「頭を下げることを忘れる」と、そこんところに焦点をおいて、お話しをいたしました、ね、頭を下げることを忘れる自分になってはならない、そのためにいよいよ自分という者を見極めて行かなければならない、そして信心の無かった昔を、いつも自分の心の中に、やはり自分が儲け出すとですね、自分の難儀しておる、昔からの分限者んごと思うてから、ね、出来るだけ昔の貧乏時代のことは、あ~触れたくない、話したくないと言う人達もある、けれども私はそこんところをですね、こういう時代があったと、こういう事もあったが現在ではこのようにおかげを受けておると、いうその根本のところをです、忘れてはならんために、やはり話として残してもおき、また話さなければならんと、自分で思うとります。
これは私だけではない、私の家族全部がです、ほんなこて合楽がこうやっておかげを頂いておるけれど、ね、ついこの頃までは、ね、それこそお父さんな下駄ばはいる、拾うて歩きござった時代があったんだと子供達が一つ思うて、見たらです、実意を欠ぐようなことはないだろうと私は思う、ね、喉をも通れば熱さ忘れる、それがにんっ、普通人間の、お~根性の中に誰しもある、ね、だからそこんところを徹底、そこから、のおかげを受けてきた、そのおかげを受けてきた、その事がそのまま、ね、身になり、祈りになっていくようなおかげを頂いて行くなら、おかげを頂けば頂くほど、その頭を下げる度合いというものは、低うなってこならなければならないはずである、ところがその頭を下げて行く度合いが、低うなるとか上の方へ上がるようなもし状態であるとするなら、本当におかげを取り落とす、取り外す前提だと思うて、ね、回心、自分の心の中を、やはりいつも、お~、反省して行かなければいけないと思います。
本当に身に徳がつくほどかがんで通らしてもらえれる謙虚な信心を目指さして頂きたい、どんなにおかげを頂いても慢心の出ようがないほどしの、充実した実意丁寧を身に付けて行きたいと思いますね。
どうぞ。
入力者:誠輝